脳死についての考え
嫁さんと脳死と臓器提供について話しました。ちょっとだけ。
私としては、自分自身が何らかの理由によって、脳死の状態となった場合。その後の復帰は難しいと考えます(あくまでも自分自身のことです。)。だから、使える臓器があったら使ってほしいって思います。
たまたまなんですが、保険証が更新になって新しいのが渡されたんです。私は社会保険になるんですが、裏側が臓器提供の意思を表示できるようになっているんです。当然上の文のとおり「提供」の意思があるわけですから記入しました。
んで、嫁さんに・・・脳死と臓器提供ってどう思う?って聞きました。
嫁さんも同じ意見。
嫁「前から書いてるよ・・・。」って
更に
嫁「お父ちゃんは、目が悪いから目はだめだね・・・。あと内臓も・・・。」って
臓器提供の目のところは、×をつけておりました。角膜が変形しているため使うのは無理でしょう(詳しくはわかりませんが)。
内臓も・・・・無理・・・かなぁ・・・。トホホ。でも万が一のときは使えるモノを使ってもらえればいいや。
とりあえず、夫婦間の脳死についての確認はされました。
ただ・・・・・。
お互いに、そのときがきたら・・・脳死を「死」と受け止めるコトができるのか?という疑問は残ります。
ましてや、自分の子供がそうなった場合。今回の法改正に賛成して待ち望んでいる方。脳死状態の家族を介護して改正に反対されている方・・・。どちらのことを考えも分かります・・・・。
この問題は・・・論議していくべきなのか・・・・。
基本的に私はA案支持します
私のでよければ使えるものは使って欲しいと思う。
ただ子供の場合、判定するのが大人より難しいのと、
稀に回復する事があるので慎重にならざるを得ませんね。
家族が判定されたら…やっぱり認めたくない部分は出てくるかも。
ラザロ徴候(詳しくはウィキで見てみてください)見ると認めたくなくなっちゃうかもね
ただ、移植同意が義務や強迫観念ぽくならない事を願います
>稀に回復する事があるので慎重にならざるを得ませんね。
ここが一番難しいですよね(-_-)
やっぱりケースバイケースでしょうね。
同意しないのも選択肢であり続けて欲しいと
思いますが。
現在「死亡した」と認知されている、たとえば心臓が停止したとかのように、脳死を「死」とするということを、人々が認知する以外に解決するすべはないのだとって考えてしまいました・・・。ただ、これが正解だとは私も解りません。
皆さん・・・どこかでされている議論ですよね。
ただ、今回のように「脳死と臓器提供」とか
「裁判員制度」とか本編があり、そのサブタイトルとしての
「生」と「死」だったりする、表層の問題提起に対する核心、
本質のところだと思います。ですから、
議論の核心、本質に近づいてくると必ず「生」と「死」を
見つめなければならなくななります。(舌を噛みそうです。)
子どもの臓器提供、脳死問題については
慎重に議論を重ねていって欲しいですね。
重ねなければ深淵な真理に近づかないと思うし
審議や議論を通してでしか伝わらないものもあると思う。
「死」の事は誰も知らないし、体験者もいません。
(まれに・・・いるようですが・・恐山とかに)
正解を導くことが出来ない事案なんだから・・・・
だけど、延長国会の会期が残り1か月余しかないのだけどね。
委ねなければいけないという、もどかしさがあります。
いま天辺に居る人らと、その側近の最優先は・・・違う。
海外の一部の臓器移植の考えは、また違う。
各臓器・臓器以外にも持ち主の記憶があり、・・・北にA臓器・南にB臓器、お通夜の時・・・